History of DSP and Residence Program

障害を持つ学生の教育計画 と 
レジデンスプログラムの歴史


Ed Roberts  エド・ロバーツ

1962年、エド・ロバーツはカリフォルニア大学バークレー校に通いたかった。多くのバークレーの学生のように、彼は聡明で大志があった。しかし、たった一つ違うことがあった。彼は14歳のときに、ポリオになっていた。昼は車いすを使用し、夜は呼吸器を利用していた。学生代表と学生健康センター代表、エドの母、そしてエド自身との間で話し合いがもたれ、学生寮ではなかったが、キャンパス内にある健康センター「カウエル病院」の中に部屋がもうけられた。 そこから彼は大学に通うようになる。


John Hessler  ジョン・へスラー 

エド・ロバーツのカリフォルニア大学バークレー校入学の新聞記事は、コントラ・コスタ病院の理学療法士(リハビリの先生)の注意を引いた。その理学療法士は、その記事を22歳の患者 ジョン・へスラーに見せた。ジョンは、自動車事故で6年前に頚椎を損傷しており、病院を出て生活することが求められていた。彼は、病院から出る代わりに、1963年に、カリフォルニア大学バークレー校から入学許可を受け、カウエル病院から通う2人目の学生となった。


Cowell Hospital  カウエル病院 

1960年代の後半までに、病院の3階部分に、10名強の学生が住んでいた。彼らはパーソナルケア(日常生活介助)をする人々を探し、雇用していた。障害を持つ個人に日常生活介助のためにお金が支払われる権利(現在でいう、介助費)があるという、一般的に知られていなかった法律を探し、電動車いすを購入した。正看護婦の、エレナ-ル・スミスは、学生の連絡役として、手助け役として、情報を与えるものとして、従事した。パートタイムの病院の雑務役は食事を与えて、学生の日常生活を助けた。


Off-Campus Apartments  キャンパス外のアパート 

1969年までに、最初の冒険的な学生が、病院から、バークレーキャンパスの南側にあるアパートに引越しをした。これは、医学的保護のもと保護と擁護が必要とされた障害を持つ個人の通常の慣習化された考えからは、遠くかけはなれた革命的な一歩であった。


The Disabled Students' Union  障害を持つ学生の組合 

1960年代の他の団体のように、学生は、お役所的な扱いを改善したり、自分達の意見を主張するために自ら組織化した。「ローリング・クォード(転がる四肢麻痺者達)」は、1969年に設立された。(1973年に「障害を持つ学生組合」に名前は変わっている) 彼らは大学に対し、障害を持つ学生へのサービスをする正式な部署の設立を提案した。


The Physically Disabled Students' Program   身体に障害を持つ学生の学習計画

1970年に、学生は、連邦政府教育局から8万ドルの資金を受けた。身体に障害を持つ学生の学習計画は、2532 Durant Avenue トップ・ドッグ 軽食堂の裏に事務所が作られた。一番最初の責任者は、ジョン・へスラーだった。へスラーは、マイク・フエス、ゾナ・ロバーツ、チャック・グリムス、3名の相談員を雇用した。当時、事務所の誰もが、ジェネラリスト(万能タイプ)だった。彼らは必要とされることは何でもした。必要とされる新しいシステムも考えた。マイクは副責任者を、チャックは主に車イスのメンテナンス修理を、ゾナは必須とされる住居や介助人のサービスを、担当していた。


The California Department of Rehabilitation  カリフォルニア州 リハビリテーション局

1975年に、カリフォルニア州 リハビリテーション局は、大学と契約を結んだ。それは、学生の自立生活能力を高める手助けをする、特別な介助人とともに、レジデンスプログラムの正式なコーディネーターを雇うものであり、一年毎に更新される。この年に、エド・ロバーツは、、州知事 ジェリー・ブラウンによって、カリフォルニア州 リハビリテーション局 責任者に任命された。エド・ロバーツは、州都であるサクラメントで、へスラーを次長として任命した。1960年代 カウエル病院の他の住人であった ドナルド・ローレンスが、身体に障害を持つ学生の学習計画の責任者に任命された。


Additional Services  追加サービス 

ろう(耳が聞こえない)、難聴の学生へのサービスは、視覚、移動に障害のある学生へのサービスに、追加されるかたちで始まった。


The Residence Program  レジデンス・プログラム 

1975年は、また、スーザン・オハラが、レジデンス・プログラムのコーディネーターになった年でもある。キャンパス内の病院に学生が生活することが汚名とされ、もはや必要がないということが認識された。大学は第2学生寮の中に、レジデンス・プログラムを移動した。それは今、大学から2ブロック離れた、第1学生寮の中に、完全バリアフリーな形で存在する。

1987年に、レジデンスプログラムは25周年を迎え、以前レジデンスプログラムに参加した157名に対し、調査が行われた。彼らの平均年収は、3万2224ドル(当時のレートで約500万円)であった。職業は、弁護士、建築家、臨床心理士、カウンセラー、経営者、プログラマー、システム分析家、経理、旅行代理店、教育者、不動産、作家、俳優など、多岐にわたっていたことが証明された。


The Disabled Students' Program  障害を持つ学生の学習計画 

"Physically" 身体的な という言葉が、1982年にとれて、DSP(障害を持つ学生の学習計画)になった。その背景には、学習障害を持つ学生へのサービス提供の認識があった。1988年に、スーザン・オハラが、DSPの責任者となり、1992年に退職。1992年に、ライアン・バリフが責任者となり、1997年に退職。1998年に、エド・ロジャースが責任者となり現在に至る。


Today  現在 

DSP(障害を持つ学生の学習計画)は、30名のスタッフを雇用し、850名の生徒にサービスを提供している。その数は、1985年度の360名から増加している。

レジデンス・プログラムの精神は、障害が人々の生活を決定することを妨げるものではないことを証明する、任務を負っている。ハーブ・ウイルスモア(1969年 カウエルプログラム)がそのことを象徴することを述べている。 「障害に負けずに戦い、乗り越える人との、密接な社会的な接触の効果は、私に自立を成功させる技術と器具を、創造し、学習することの手助けとなった。人生と仕事に対し新しい可能性があることを、考えるようになり、挑戦するようになった。なぜなら、プログラムの他の生徒と一緒に暮らすこと、お互いに刺激しあうからである。友情と愛情は、プログラムの障害を持つ学生の中で共有化され、それが、再び新しい人間に生まれ変わらせる鍵となった。いくつかの人生における結束は、我々に家族を超えた新しいつながりを与えることになった。大学の知性的で、文化的な環境の中で、すごした全ての経験、レジデンス・プログラムでの経験は、人生の中で2番目に重要なこととなった」

1人の学生の高等教育への望みが、レジデンス・プログラムを、国内外の他の大学から何百もの見学者が訪れるような、国際的に認識されるモデルとして成長させた。見学者達は、DSPの成功を観察し、学び、真似るために訪れている。


1998年 3月8日 更新


翻訳/文章責任  木島英登

2003年 8月

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