お兄ちゃんの夢(1)
2001/07
璃江下り / 中国
夢を叶えましょう
日本エアシステムのマイレージが貯まったので、中国の広州へ行こうと思った。「食は広州に在り」という言葉にあるように、本場の広東料理を体験したかったからだ。また、足を伸ばして、山水画の風景でも有名な奇山が並ぶ、桂林にも行ってみたかった。
・・・ メールを交換するうちに、家が遠くなく、お兄さんは、ラグビーが好きということがわかった。ラグビーは好きだが生で見たことがないというので、2000年の年末、お兄さんのひいきチームである同志社大学の試合を花園ラグビー場に一緒に見にいった。そのときに、「来年、中国に行くけど一緒に行かないか?」と声をかけた。 そして、日程を調整して、2001年 7月、私が兄妹を案内する形で一緒に旅行することにした。ただ、お兄ちゃんにとっては初めての海外旅行。しかも中国。行く、行かないと、ご家族でも揉めたようだが、この機会を逃すものかと決意を固めてくれた。
また、車イス2台だと大変なことが多いと予想されるのと中華料理は大勢で食べた方がおいしいので、いろんな友人に一緒に来ないかと誘っていた。結果、東京から友人のジャーミーが1日目と2日目の桂林を、香港から親友のヨシが3日目と4日目の広州を一緒に旅することになった。 川下り この旅のメインは、山水画の風景が続く大景勝地の桂林での川下り。現地でツアーを手配した。もしや、車イスでは断られるか、料金を多めにとられるのでは、と心配していたが、別に車イスを気にもしていなく、問題なくツアーを申し込めた。 もし、断られたり、揉めたりしたら闘ってやるぞと意気込んで中国に来たが、肩透かしであった。期待を裏切り、中国の人々はとても親切だった。
ぽこぽこと突き出たこの世の景色とは思えない桂林の奇山群の中を船は進む。約6時間のクルージングを満喫した。 終点の陽朔でも、船員たちは優しく介助して降ろしてくれた。だが、船着場から先は階段だ。そこまでは手伝ってくれようとはしない。あくまで自分たちの仕事の領域のみ助けてくれたわけである。それでも十分に親切だった。 階段は、ほかの乗客や地元の中国人に頼み、2台の車イスを担いでもらった。階段を上がり、土産物屋が並ぶ小さな通りを抜けると小さな広場があった。そこにマイクロバスが何台か止まっていた。 ツアーによっては陽朔の街で、30分か1時間のフリータイムがあると聞いていたが、同じ船に乗っていたツアー客は、全員二つのマイクロバスに乗り込んでいる。そしてバスは満員になっている。どういうことだ? ツアーは、川下りの前日の夜。桂林の街中の旅行代理店で申し込んだ。しかし、入口には階段があったので、私は外で待って、ジャーミーがチケットを交渉し購入していた。旅行代理店の人がまったく英語が話せないので、英語が得意なジャーミーは交渉に苦労していた。それに、ジャーミーだけ、川下りの終点である陽朔の街に残り、私と坪田さん兄妹は、桂林の街に戻ってくることも説明しなければならなかった。 風光明媚な陽朔の街をしばし散歩できるかと思い込んでいたが、妹さんが、どうもおかしいと心配していた。私は、高いツアーのお金も払っているのだからと安心していた。車イスだから、別の車を用意しているのかもしれないとも思っていた。だが、どうも様子がおかしいので、ツアーガイドに尋ねた。 「我々3人は桂林に帰る。陽朔に残るのは1人だけだ」 ツアーガイドは驚いた。 「なに? 君たち4人は陽朔に残るのだろう。君の友だちはどこだ? 彼女が言っていたぞ。それに、赤いシャツの男が案内すると言っていただろ!」 完全なる間違いだった。旅行会社は、私たち4人が陽朔に残ると確信していた。旅行会社に、自分だけが陽朔に残って、ほかの三人は桂林に戻ると伝えていたはずであるが、うまく伝わっていなかったようだ。チケットを手配したジャーミーは既に陽朔の街並みに消えていた。 瞬時に、旅行会社と言い合っても正解はないと感じた。どちらの言い分も正しいからだ。だが、ここでは私たちの主張は通さなければいけない。もし、マイクロバスに乗れなければ、桂林に自力で帰るしかない。私一人ならなんとかなるが、今回の旅行は、坪田さん兄妹を連れている。また翌朝に、広州行きの飛行機に乗らなければならないので今日中に桂林に戻らなければならない。 時刻は16時15分。探せば桂林行きのバスもあるだろうが、いかんせんそれは不確定でギャンブルだ。最悪の場合、タクシーチャーターをすればいいが、約100キロ離れている桂林の街までの料金はバカにならない。と、頭の中で3秒で計算した。 ・・・・・・ 旅行のトラブル発生時に限っては、本当に頭がよく働く。乗らないとダメだ。旅行の経験がそう語る。少し戸惑っていた坪田さん兄妹に「強引にマイクロバスに乗り込むぞ」と真剣に伝えた。 さあ出発だと思っても、出発しない。ほかの乗客もしびれをきらして「行こう!」というが出発しない。旅行会社のガイドは戸惑っていた。携帯電話を握りしめて、行ったり来たりしている。ガイドは泣きそうな顔をして説明する。 「定員オーバーだ。警察につかまるのでダメだ。悪いけど降りてほしい」 とせがまれた。 だが、ここで引けない。改めて、「三人は桂林に戻ると確かに伝えたはずだ」と主張した。ところが、旅行会社は勘違いしていたので、人数分ちょうどの座席しか用意していなかった。余分の席はまったくなかったのだった。 すると、最後列の座席から声がした。 「我々が降りる」 北京で働く米国人の青年だった。中国人の彼女と一緒に旅行に来ていた。船の中で一緒のテーブルのグループだった。ジャーミーは、このカップルと仲良く話していた。私は船の甲板に上がることができなかったこともあり、挨拶程度しか話をしていなかったが、顔は知り合っていたツアー仲間だった。 彼らの好意に甘えることにした。もちろん、彼らは往復でツアーを申し込んでいるが、我々のために、自ら降りてくれたのだ。彼らは自費で桂林まで戻らないといけない。ただただ車の窓から、彼らに頭を下げてお礼を言うしかなかった。 もともと、私たち4人が同じ料金なのは変だった。陽朔で降りるジャーミーだけが、ツアー料金が割引されるべきだった。ツアーチケットは4人とも陽朔までの片道となっていた。だから私たち3人は、追加料金を支払った。そして、片道切符しか持たない我々が、米国人と中国人のカップル、ツアーガイド3人の席を奪ってしまった。 いつも人に迷惑ばかりをかけている。いつかは逆の立場にならなければと思う。パッと手をあげて人を助けられるような人物に。 |