フィリンピン研修旅行
1996/02
この旅行は、大学のクラスメイトを中心にした12名の学生と先生2名での
日本のODA(国際協力基金)の現状を勉強する、ツアーではない学生企画の研修旅行でした。
フィリピンの概況 フィリピン研修旅行の最初の目的地は、BAYANという組織だった。リーダーであるサンチャゴさんの話を通して私達は、フィリピンの概況を知ることができた。 BAYANという団体は、日本語で訳すと「新民族主義同盟」とすごい名前になります。1985年に設立され、メンバーは約150万人。労働組合、農民運動、女性団体、漁民団体、教員組合など17のセクターをまとめている組織で、マルコスからアキノに政権が変わるとき政治を動かした大変影響力のある団体です。BAYANの方針は平和主義、民主主義を求めてアメリカや日本の資本主義国の帝国主義的支配に闘うことです。 普段、日本で生活していて資本主義なんて考えていなかったけど、いわゆる植民地的に、低賃金で働かされる一般の人が、一部の金持ちだけが日本やアメリカの企業、国と結びついて彼らを搾取している構造をみせつけられ、(例えば日本でバナナを安く買えるのも彼らの低賃金労働があってのことなど)、この研修旅行で資本主義について考えることになる。 フィリピンには、2つの階層がある。1つは大規模なビジネスで外国の資本主義に関わる支配層であり、これは国民の1%だけである。もう一方は、労働者(15%)や農民(70%)で、最近は小規模ビジネスに関わる中間層(10%)が出てきている状況である。国民の70%は貧困層であるといわれており、企業も半数以上が一日の最低賃金145ペソ(580円)を支払っていない状況です。労働者のうち、16%は失業、28%は不完全雇用の状態ということです。多くの人が日本やシンガポールやアラブなど出稼ぎに行って仕送りしている状況です。そして、優秀な人材も海外に流出しフィリピンには残らない問題もあります。 国民は皆、政治意識がとても強く、日本とはえらい違いです。労働者も政治について語ります。しかし聞くたびに私はいつも疑問に思うことがありました。それは「理想論であって、現実はどうなの」。厳しい言い方ですが、彼らの論理、考えはとてもすばらしい。しかし現実が伴わないのではないか。実力が伴う前に頭ばかりがでかくなり体がついてこないとも感じました。 理想は高くても国民は選挙の際に、3G Guns(銃) / Goons(ちんぴら) / Gold(脅し、買収)の状態であるという。1%の支配者層は、選挙の前には、貧困な人々を買収し、銃とかで脅す。選挙後は、不正に票を数えるのだということです。 JICA(国際協力事業団)訪問 続いて、近代的オフィスビルが並ぶマカティ地区のJICA事務所を訪問した。この研修旅行では、フィリピン社会の下層部の人達側にたったNGO(非政府組織)を主に訪問したのに対し、この訪問は、公的な援助をする機関であったので特別な意味をもっていた。同時に、他の訪問地では、日本の悪口(ODAに対しての)ばかりを聞くことになり、感謝の言葉は、この日の午後訪問したJICAの援助で建てた病院だけで聞けたのみだった。
平成4年の「援助大綱」によると、 人道的配慮、相互依存の繁栄、環境保全を柱とし、我々の税金約1兆円がODAの予算である。全世界に援助しているが、ほとんどはアジア中心の援助で、その中でもASEANに集中している。近年発展著しいこの地域のタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアは、もう日本の「無償協力」は卒業したが、フィリピンだけは取り残された形になっている。 フィリピンでのJICAの目標は、1)インフラ整備 2)産業構造の再編成 3)貧困対策 4)環境保全 5)地方開発 6)防災分野 援助に対する開発調査はコンサルタント会社に委託して行われている。JICAの活動を例に挙げると、800の学校建設やフィリピン総合病院(30億円)建設などがある。 この研修旅行を通して、いくつもの日本の援助に対する非難を聞いた。 そもそもJICAの本質とは何か? 「JICAは民間のNGOと違って、政府間の協力である。日本国民の税金が使われる。我々は資金援助するだけであって基本的にその国の政府に従わなければならない」。つまり、日本政府にとってフィリピン政府が喜んでくれればいいのである。しかしながら、フィリピンの政府が潤っても、その恩恵が国民まで届かず、「国が豊かになる=国民が豊かになる」という構造が成り立たない。 もし、フィリピンの政府がだらしないからといって援助しなければ、フィリピン政府との安全保障や経済活動がうまく保たれない。かといって、お金の使い道やその政府の腐敗に口出しすれば内政干渉になる。でも口出ししないと、ひどい使われ方をしたり、腐敗を生むことになる。どこまで深く関わるのか微妙なバランスが必要である。世の中しわ寄せがきたり犠牲になるのは、いつも貧しい人達。それが問題だ。 スラム(トンド地区)訪問 マニラ市北西部にあるトンド地区は、例えばガイドブックには「立ち入り厳禁」と書いてあるようなフィリピンでも代表的な一大スラム地帯です。 フィリピン全土では、1880万人が poor aria に住んでおり、マニラ首都圏では520万人の urban poor が生活しており、そのほとんどが農村から来た人々である。マニラの場合は、80%がビサヤ地方(フィリピン中部の島々)から来ている。トンド地区には、現在78万人もの人々が暮らしている(1990年)。
トンドは、1940年-50年代マニラのごみ捨て場であったところに人々が住み始めた地区です。有名なスモーキーマウンテンもこの地区にありました。 スラムといえば生活環境が良くないというステレオタイプに我々はとらわれていましたが、さまざまな地域があることがわかりました。トンド地区のなかでも最初に私達が訪れたスラムは、人々が古くから(1950年代~)住んでおり、路地も舗装され電線や下水設備も整っています。 建物もバラックよりもしっかりとしたコンクリートの家が多く、狭いところなので三階建ての家も多いです。テレビやラジオといった電化製品も多く見られます。私達は、このスラムの中にある幼稚園(コミュニティで運営)で宿泊しました。幼稚園を運営するぐらいにコミュニティのつながりは強いのです。後ろの黄色のイスで、この晩、私は寝ました。 クラスメイトは地べたで寝ました。
また、このコミュニティの中には、立派なバスケットボールコートもあります。貧しくても、日本が忘れたコミュニティ(地域)のつながりがありました。路地のあちらこちらには「サリサリストア」と呼ばれるキヨスクみたいな何でも屋が店を出しています。ちなみに、日本での出稼ぎで稼いだフィリピン人は、国に戻ってから稼いだお金でサリサリストアを開いて、のんびり暮らすということが多いそうです。
スラムとスクウォッター 次に、トンド地区の外れにある港湾施設に人々が住みついた地域を訪れました。urban poor には、スラムとスクウォッター(不法占拠者)という2つの形態があります。この地域はスクウォッターで、生活環境の悪いところでした。 栄養失調でお腹が妙に出ている子どももたくさん見られました。貧しい人は、お米と塩が食事だそうです。米ばかりとっているとお腹が出てきます。この地域では家のほとんどがバラック建てで、人が一人やっと通れることができる路地が続き、簡単な排水設備しかありません。衛生状態もかなり悪いとのこと。 路地を抜けると突然、川の河口部に出ます。当然、堤防などなく、雨季などに川が増水したり、高波が来たときなどひとたまりもありません。生命の危険にさらされながらも生活し続けるしかない人々がそこにいます。周囲にはゴミの悪臭が漂い、川の色も黒くよどんでメタンガスの泡が浮かんでいる生物学的に死んでいる川でした。車イスである私は、クラスメイトの助けや、このスラムの子ども達に車イスを押してもらったり港湾労働者である力強い地元民達におんぶされたりして、このスラムを見学しました。路地、とても車イスが進めるものでなく、ガタガタで下水も流れています。
この地域にはゴミの集積場があり、高さ10mほどのゴミの山の隣にスモーキーマウンテン(今はなくなったメタンガスで曇るゴミの山)同様に、ゴミの中から金目の物(空き缶、鉄など)を拾って生計を立てている人々が生活していました。当然すごい悪臭です。 バタンガス港開発 バタンガス港開発の反対運動を起こしている中心人物がテルマさんです。反対運動の拠点である小屋の中で、彼女の話を聞き議論しました。
開発の行われているサンタクララというコミュニティの歴史は1830年頃から続いており、先祖は、この港湾で漁業、塩業等により生計をたてており、港は生活に密着していて、とても大切であった。ところが、1974年、政府によって港を国際的な大きな港にする計画が始められました。そして、それは住民には何の通告もない形で推し進められ、港建設のため、90の家が破壊されました。
そして、1989年、JICAによって「カラバルソン計画」なるものが打ち出され計画の一環としてバタンガス港の拡張が始まりました。拡張の意味は、マニラ近郊には大きな港を建設できないので、バタンガスに大型船が停泊できる港を作り、物流の起点にするというものです。同時に、高速道路も整備しています。
この計画の資金の80%は、日本のODAから出されており、バタンガス港開発だけで約60億円のお金がつぎ込まれているということです。もともとは農業用地だった538ヘクタールが拡張用地とされ、1992年、5地区1568家族の家が破壊されたということです。
テルマさんは、「この開発は、1940年~42年の日本軍占領期を第一の侵略とすると、第二の侵略だ」とも主張していました。日本人の税金によって、自分達の国フィリピンが崩壊していっていることが、多くの日本人は知らない、責任を認識していないと主張します。ODAの影響により、農業の衰退や人権侵害が生じているとし、真の“development”とは何かと問い、外国の政府や企業に支配されるのではない自国の発展を求める主張です。
「だから、我々にどうしろと?」 質の異なる問題点がいくつか混ざり合っている。フィリピン政府の強引な開発の進め方という問題点と開発そのものに対する在り方や方向性の問題点があると指摘された。
日本としてどう関わるか、前者は、援助する際、基準や前提条件を設定するのかどうかという方法論と内政干渉が関わり、後者は、大規模開発を行い国家レベルで経済が発展したら、結果的にその恩恵を下層の人達も受けることができるという先進国的な開発が評価されなくなる。環境面への配慮や、持続可能な開発といった長期的な視野にたった真の国際援助とは何かという難しい問題になっている。
ラグナ湖 ラグナ湖水質改善運動をしている団体の一人である漁師マンプラタさんの話より ラグナ州には、琵琶湖の約5倍の大きさのラグナ湖があります。 周辺は漁業が盛んで、自然の豊かな楽園だったということです。しかし「だった」という過去形からもわかるように、それは1960年頃までのことであって、政府による開発計画、そしてカラバルソン計画に巻き込まれ湖周辺は、大変な被害をこうむっている。 湖周辺の1600工場のうち、20%しか公害除去装置をつけていない。しかも常時動かしているのは、そのうち5%に過ぎないのが現状です。工場への規制(環境対策の法や制度)はあるものの、日本にと比べると緩く守られてもいない。工業化を急ぐことを優先し、環境対策はおろそかになる・・・ 高度経済成長期の日本と同じとも思われるのですが、フィリピンの場合、その汚染は海外資本企業によるものが多いという点をみなければいけません。 また、地方自治体がきちんとしたゴミ捨て場を持っていない。農地からは化学肥料や殺虫剤の影響を受けるなどラグナ湖の汚染は本当に深刻で、魚が大量死することが多発し、その度に、漁民は大きな打撃を受けている。 ラグナ湖が汚染されてまくっていると聞いて悲しくなった。フィリピンに来てから魚が美味いのだ。鯛の一種か、おいしい味がする。その魚は、ラグナ湖で養殖されているのだという。 大農園 噂には聞いていた途上国の大農園。その中で働く村を訪れたのですが、着くまでが大変だった。 入口のゲートには銃を持った護衛兵が構える。そして入口から村まで、信じられないガタガタ道(車内で体が浮く)を、約40分進む。これが一つの農園ですよ。まじで飛行場も中にあるんじゃないかと思います。農園主は桁外れの大金持ちです。 ガタガタ道に揺られて、やっと目的地の村についた。バンから降りると、さらに山道を登るのだという。 はて、どうしよう?車イスで山道は上がれません。すると村人はカラバオ(水牛)をつれてくるではありませんか。雨季など道がぐちゃぐちゃなときカラバオ(水牛)に引かせて物を運ぶのだとか。私をカラバオ(水牛)で引っ張って運ぶらしい。
ところが、これがすごい恐怖だった。一人では危ないので、クラスメイトにしがみついて乗った。村人がムチを一叩き入れると、「ブォー」といって発進!なんという勢い。ビビリました。周りもあごが抜けちゃいました。その後はビビル私を見て大爆笑。そして愉快に写真撮影。シャレならんちゅーのに。 カラバオ(水牛)は私を引っ張り、急な山道を登る登る。途中、さすがにカラバオ(水牛)はバテていたけど、無事に山頂に到着。この眺めが素晴らしかった。一面、大農園である。遅くなった昼食は、ココナッツジュースと、山頂なのに魚のご馳走。それとスープ。お腹を壊したばかりなのに食っちゃいました。 ここでは、フィリピンの農地改革の話や彼らが反対するカラバルソン計画について勉強したんですが、その記憶より、村人との交流が忘れられません。ギターを奏でながら、この村の青年達と歌の交換。(私も下手くそながらアリスの「チャンピオン」を歌いました)をして交流したり、好きな女性のタイプとか、僕らのグループの女の子を紹介しろ等々。晴れ渡る空と同様に、本当に晴れ晴れとしたひとときでした。 今回の旅行中、私はいつも正露丸を飲んでいた。お腹を壊したりするとトイレがないので困るからだ。しかし、結果的にこれが裏目に出た。大農園を訪問する朝、宿泊施設のトイレがきれいで洋式だったので、フィリピンに来て始めて大を試みるが、なにぶん1週間なので残糞感があった。お腹が痛いながらも、目的地の村へ向うがツライ。。。 そして極めつけは、農園のゲートを超えてからの悪路。表現するのが怖い。お尻が浮くほどのガタガタ道で、内臓も上下にシェイクシェイク。すごく気分が悪くなった。やばいもれそうだ。やばいやばい。乗っていた車を止めてと運転手に言ったときは時には、すでに遅かった。もれていた。とりあえず、どうしようか?? 一応、用心のため着替えを持ってきていた。道から奥の草むらに入り、地面に転がって服を着替える。お尻は汚いので、みんなから紙を借りて、ミネラルウォーターも使ってきれいに洗浄する地獄絵。 クラスメイトとはいえ失敗したことを見られるのは、さすがに恥ずかしかった。しかし、恥も糞もない。なんとかせねば次に進めない。なんとかお尻もきれいになって、着替えをすませ、草むらにパンツを放って車に戻った。 途中で案内人がデモに参加して予定が遅れ、さらに私のお漏らしで、予定時間より2時間以上遅れて目的地に着いた。それなのに村の人々はお昼も我慢して歓迎してくれたのだ。大感謝。そして、上記の水牛に引っ張られたときも、拭いたとはいえ、お尻は汚かったのだ。とほほ。 帰り道に、水路があったので、そこで水浴び。お尻をきれいにしました。宿舎にはお風呂がなくシャワー(桶から自分でかける)だけだし、体を洗うのは困難だったのです。この経験でさらに根性がつきました。 エリート達との交流 フィリピンの大学生と交流しようということで、フィリピン大学(通称:UP)に行きました。UPのあるケソンシティ(マニラ)は、区画整理された街で、UPも私達の神戸大学よりもずっと美しく、今までスラムや小さい村を訪れていたのでギャップが激しかったです。交流の相手は、TOMOKAIという日本好きが集まったUPのサークルでした。OBの方もこられて日本語も交えた楽しい時間でした。 UPは日本で言えば東大にあたり、エリートの集まりです。みんな洗練された格好をしており、私が「トンド(スラム)に行った」というと、驚いた顔をして「あんな危険なところに行ってはいけない」と諭されました。彼らは、もちろん行ったことがありません。日本でも外国人旅行者が「大阪のあいりん地区の三角公園の近くで宿泊した」と聞くとビックリするようなものかな。
それぞれの自己紹介の後、UP側の企画に沿い、「教育」「宗教」「習慣と伝統」の3つのグループに分かれて、お互いの文化を紹介することになりました。 フィリピンには中学校がありません。小学校へは70%の子どもが、高校へは50%が、大学へは30%が進学するそうです。やはり貧困が進学率を低くしているとのこと。他には学費の違い。英語教育の違い。お互いの教育問題(フィリピンは教師不足、日本はいじめ問題等)たくさんの違いを発見しました。 日本のミックスされた宗教事情、信仰心のなさについては、「何か宗教の代わりにすがるものはないのか」という質問が出たり、フィリピンでは政治と宗教が結びつき、票集めに使われてよくないとUPの学生が語ったりしました。また話題が他に移って、フィリピンの同性愛事情などにも話が飛びました。 バレンタインデーは男性から女性にプレゼンとし、チョコレートだけでなく花やカードもあげるという。キリスト教徒が大部分なので11月~2月までクリスマスソングを聞いている。仕事の面では男女の不平等もなく、中には父親より母親の方が給料が高いという学生もいた。社会的な男女の関係は日本よりずっと進んでいると参加者は感じました。 ピナツボ火山噴火 マニラから車に乗って、北に4時間。今回の研修旅行の最終目的地であるパンパンガ州サンフェルナンドに行った。阪神大震災を体験した我々としては、1991年のピナツボ火山噴火により甚大な被害を受けているセントラルルソンの状況と被災地の復旧、被害の拡大を防ぐ活動を行っているNGOと被災民が住む仮設住宅を訪れた。 また、ハードな日程であったので、参加していた女性3名が体調を崩しダウンしてしまい、ちょっと重たい雰囲気になりかけたが、そんなことも忘れるくらい衝撃のある訪問地であった。 1991年にピナツボ山は噴火した。その年の地球の気候が変わるほど、大きな火山爆発だった。フィリピン上空では、火山灰が滞留し、ずっと曇り空が続いたそうだ。長らく滞在していた太平洋で一番大きかった米軍の空軍基地クラークが復旧をあきらめて撤退。それほどまでに大きな噴火と災害であった。下写真は火山灰で埋もれた学校。見えるのは2階 南に約200km離れたマニラの空港では、火山灰が滑走路を埋め尽くしたため、職員が一週間かけてホウキではいて火山灰をどけたという。その火山灰が毎年雨季の大雨になると山麓の村に流れてきていている。毎年いくつもの村が消えて行っている。災害の被害はその時だけでなく、今でも続いているのだ。 この火山灰の流入を防ぐためにフィリピン政府は、最初、高さ3m、長さ21kmの堤防を作り、火山灰を防ごうとしたが、台風が来て、あっけなく火山灰は乗り越えた。 現在は高さ10m、長さ37kmの、コンクリートで表面を固めた大きな堤防を作り、その上を縦貫道路にしようと大型プロジェクトをしています。住民側の意見としては、「火山灰はどんどん溜まり、いずれ堤防の高さまで達し、被害が大きくなる」「堤防より被災者支援に金を使うべきだ」というものが出てました。 確かに、我々も堤防の上の道路を通りましたが、火山灰がどんどん堤防の高さまで迫ってきていました。その火山灰の下には、たくさんの家が埋もれています。皆で記念撮影。火山灰の川の下まで降りて滑って登るのに苦労しているのが一人。
ついつい我々の大学が神戸で震災をもろに体験したので、神戸の状況と比較してしまいましたが、ピナツボ山の場合は、火山灰で全てが埋まり、農地を持っていた人は、二度とそこで農業ができなくなったし、家があった人は、土地ごとなくなってしまいました。 神戸の阪神大震災の場合は、被害は大きいけれども、またやり直せる。しかし、ピナツボの場合は同じ土地ではやり直せません。何もかも飲み込む火山灰は恐ろしい。さらに、毎年被害が拡大し続けているのが大変です。 火山灰に埋もれた村々を見た後は、政府が作った最定住地域(仮設住宅、公営住宅)を訪問した。そこでコミュニティの代表の人などから村の被害状況、政府の援助状況、避難住宅の概略など話を聞いた。 最初に訪れたのは、Purok 5 という 57世帯からなる最も小さい規模の避難エリア。こちらは、元の村そのまま一つが移転してきております。移転してきたのは、噴火から3年後の雨季に、火山灰が襲い、村がなくなったということです。一番の問題は、失業です。火山灰によって農業ができなくなった村の人々は、現在、日雇い労働者、トラック運転手、建築関係の仕事で生計を建てていますが、恒久的な仕事とは言いがたいものです。1994年の避難地域の調査では、約30%の世帯が収入無しの状態です。 続いて、ピナツボ火山の最大の避難地域CABCOMを訪れました。アメリカのクラーク空軍基地(1992年に撤退)内に作られています。実に、6000世帯もの家族が避難しています。米軍が残していった有毒物質のために、地下水を飲むことができず、飲料水を買わなければいけないこと。それに生活費の大部分を取られてしまう。また、あまりに大きい避難地域のために、色んなコミュニティが混ざり合い、いろんな人が混同して住んでいることなどが問題としてありました。
最後に、この地域のNGO団体を束ねる組織の委員長であるFrankさんの言葉を「あなたたちに、このフィリピン、ピナツボ火山についての本当の実情を日本に広めて欲しい」。このホームページを書くことで、少しは伝えれると思います。 ボラカイ島へ 密度の濃かったフィリピン旅行の最後の3日間は各自の自由行動だ。12名の中の8名が、リゾートライフを楽しみにいった。 目的地は、ボラカイ島。某旅行雑誌の選ぶ、世界で最もきれいな海に選ばれたこともある島だ。マニラから飛行機でカリボに飛んで、自動車に乗り、港で船に乗り、島に行く。半日作業だ。当初、私は、時間がないし、セブ島とか近場のリゾートに行こうよと主張したが、この旅行のリーダー伊藤氏、その他メンバーの強い意向もあってボラカイに行くことになった。 さて、朝はやく、マニラ空港に向う。すると私の大好きな気の強そうなお姉さんが話しかけてくるではないか「ボラカイに行くなら、ツアー手配しなさい」と。 何でも、ここで予約しないとボラカイには行けないらしい。クラスメイト達は、カリボ空港についてから、手配すればいいやというが、彼女の言うことによると、マニラでしていかないとダメらしい。みんなでもめた結果、旅慣れた私は人を信用する大切さもしっているので、強引に申し込むことにした。結果、カリボの空港にはツアーデスクはなかったし、空港からボラカイまでの道程は大変だったので、マニラ空港での選択は正しかった。 そして、飛行機を待つことにする。しかし、風雨が強いらしく飛行機が飛ばない。本当に行けるのだろうか?しばらくは飛びそうにもないので、空港の外に出て、散髪してくつろいでいた。 ようやく、飛行機が飛び、カリボ空港に着いたのは、日も暮れかかる夕方だった。朝早くに起きて、ツアーを申し込む込まない、飛行機が飛ぶ飛ばない等、私たち8名一行は、フラストレーションも溜まっていて暗い雰囲気だった。私は、散髪をして気楽であったが。 カリボ空港からワンボックス車に乗りこみ、アスファルトの多くが剥れている凸凹の道を車は、100km以上で飛ばす。道には歩道がないので、歩行者や子ども達を轢いていく勢いであった。年間、この道で何人の子どもが交通事故の犠牲になるのかと考えてしまった。2時間ばかりぶっ飛ばして、ボラカイ島に渡る船着場に着いたときには日が完全に暮れていた。 ボラカイ島に渡る船着場で下ろされるが、どこに船があるんだろうかと一同不安になった。明かりの一つもない。桟橋もない。しかし、よく見てみると、懐中電灯で照らされて、ボートが3隻ビーチにつながれている。そこに乗りこめと叫ぶ声。明かりが刑務所のサーチライトみたいに海面を照らす。 ちょっと待て。船というのは、ボートなの? 桟橋があって乗りこむのじゃないの? ビーチから歩いて船に乗りこむの? 他のツアー客の西洋人達も靴を脱いで、ズボンをたくし上げ、ジャバジャバビーチに入っていって乗りこむ。女の人や高齢の人は、手を引かれてボートに乗りこむ。大きい荷物はポーターが運ぶ。さてはて、私はどうやって乗ろうか? おんぶでは乗れない。体が濡れてしまう。肩車してもらわなければいけない。クラスメイトは、重たい私を肩車は難しいだろうから、西洋人のツアー客にヘルプしてもらうことにした。この辺、すばやく対応するのは我ながら才能かな。優しくて背の高いイギリス人が快く肩車をしてくれて、どうにかこうにか、ボートに乗れた。懐中電灯だけが光る暗い騒がしいビーチ。状況は最悪だが、逆転の発想で、ミッドウェイ上陸作戦の気持ちになって困難を楽しんだ。 ボートがボラカイ島についても、やっぱり桟橋はなかった。各々ビーチを歩いて降りなければいけない。ホテルが決まっていれば、そのホテルのビーチで下ろしてくれる。我々は公共ビーチで降ろされ、今度は、ボラカイのフィリピン人ポーターに肩車してもらった。 着いたのは夜中。ホテルは予約していないので探さないといけない。ここでも大揉めした。高いだの、安いだの、即決しようだの、じっくり探そうだの、別れて泊まろうだの・・・8名全員の意見がまとまることはない。皆のイライラが頂点に達していた。「どうして喧嘩するのよ」と、泣き叫ぶ女子がいた。「俺は勝手に泊まってくる」と、別行動をとろうとする男子がいた。いろんな声が飛び交うなか、なんとか宿泊先が決まった。朝から夜まで一日の団体旅行と大喧嘩。それも今となっては、良い思い出だ。
ボラカイの海は、やっぱりめちゃくっちゃ美しかった。スキンダイビングで自由に泳ぎました。苦労して来たかいがありました。桟橋がないのは、海を汚さないためなのかも知れません。足を濡らしながらボートで行くのもリゾート気分を盛り上げるためかもしれません。
すべてのものが船で運ばれる、南の小さな島のリゾートです。ただ、車イスで行くのはちょっと無謀であります。ボートの乗りこみが大変だからです。行きたいけど、二度と行けるとこではありませんね。 |