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新着情報 過剰すぎる設備とサービス どうして、日本のバリアフリーは過剰に豪華なのでしょうか? 特別視されすぎること、設置コストがかかりすぎることは、バリアフリーが進まない大きな原因です。福祉という名のもとに、バリアフリーの設備やサービスは、高コスト体質になっています。予算が削減される中、これからは費用に対する効果の視点も無視するわけにはいきません。 また、利用者も完璧を求めすぎているのではないでしょうか? 理想のバリアフリーは人それぞれ違います。100人いれば、100のバリアフリーがあります。すべての人が満足できる設備やサービスを追い求める(最小公倍数)のではなく、費用に対する効果の視点も考慮した現実的な妥協点(最大公約数)が必要です。 合理的配慮 reasonable accommodation を考えましょう。 100点満点でなくても、60点でもいいから、広く浅くどこでも対応できるといいと思うのですが、「障害のある方はこちらで対応します」という、狭く深い対応で、特別視すぎる気がします。足し算のバリアフリー「何があれば便利か」ではなく、引き算の考え方「何があれば十分か」。そのような考え方も必要です。
車いすで世界中(175カ国)を旅して、様々なバリアフリーを見てきました。バリアフリーの考え方も、対象者も、設備も、時と場所が変われば大きく違います。進んだ地域では、障害者を特別視せず、簡単に、自然に、共生できるように配慮をしています。逆に、バリアフリーの設備が何もないところもあります。その場合は人力での対応があります。 日本は、保護・隔離の意識が強い、障害者専用のバリアフリーとなっているのが特徴です。法律や条令を遵守しただけの有効に活用されていない施設やサービスが多く、設備のバリアフリーは非常に進んでいますが、心のバリアフリーは進んでいません。 障害者専用の施設やサービスにした場合、通常の施設やサービスを利用できなくなってしまうという新たな弊害を産むことがあります。設備や配慮が無いよりは、有るほうがいいのですが、必ず利用しなければならないはおかしいです。バリアフリー設備やサービスは、利用者の選択が一つ増えたと考えるべきです。選択が多いことが豊かなことです。 (1) 特別じゃないもの。もっと普通に、もっと自然に、 多様性を認め、個性を尊重した上で、機会を等しく用意すること。社会全体の個々がそれぞれ当事者意識を持つこと。ちょっとした配慮で、ちょっとした考え方の変換で、誰にでも住みやすい社会に近づきます。日本と世界、どちらが良いってわけでなく、色々な国の仕組みを知って比較すること大切です。一つの方法論しか知らないと、それだけが全てだと思って、狭いものの見方になるからです。 法律や条令を徹底するのも有りですが、「強制しない」「報酬や罰則を与えない」で、自然に人を動かす「ナッジ」という、デザインや仕組みで問題解決をする方法もあります。ルールで縛られることなく、行動変化を促す方法を探っています。
とってつけたようなバリアフリー設備は、利用することで逆に障害を自覚させてしまいます。配慮をするのは素晴らしいことですが、あまりにも過剰な対応はいかがなものか?係員を呼ばなければならないサービス、別の入口では、快適ではありません。 そもそも段差がなければスロープは必要ありません。バリアを作ってフリーにするのではなく、最初からバリアのないように考えることが、より利用しやすい設備になり、同時に建築コストの低下にもつながります。 また「配慮のやりすぎ」は、 「障害の強調」につながり、差別(逆差別)を生む危険性があります。特別視ではなく、一人の人間としての人権を尊重し、意志が尊重されること、多様な選択(方法)が可能なことが大切です。 障害が強調されるような施設サービスは、形としてはバリアフリーをしているかもしれませんが、心のバリアフリーではありません。障害者は特別な存在として扱いすぎて、自分とは全く無関係な問題として線を引くこととなり、バリアフルな社会を再生産してしまう危険性があります。
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